切符はどうにかして手に入れることができたが、日本のように自動販売機が発達していないので、自由に購入することはなかなか難しいようだ。われわれはホテルに到着すると明日の出発の準備に取りかかった。明日十七日はワシントンD・Cを離れ、バッファロー空港まで飛ぶ予定であった。
ホテルへ向かう途中、白い建物の駅があった。ワシントンユニオンステーションある。ここで記念キップを買おうと、友人の一人がキップ売り場へ行き、こう言った。「次の駅まで一枚ください」すると駅員が、「何という駅ですか」また友人、「分かりません」これで会話は終了。駅員は何かぽかんとしてわれわれを見ていた。実は、この駅から二つの路線に分かれているため、次の駅は二つあったのだ。それを知らないで言ったものだから、駅員は困ってしまったというわけだ。
レストランの主人、バス・タクシーの運転手、店のオーナー、学校の先生や生徒、これらはみんな黒人であった。 われわれは夕方近く、ワシントンの街をぶらぶら歩いていた。ワシントン広場の見学を終えて、ホテルへ帰る途中であった。通りを歩く人々はやはり黒人が多く、薄暗いときには何か不気味な感じを与える。歩きながら、足に何かがつっかかる音を耳にした。何だろうと思って下を見ると、「あっ」と叫ばざるを得ないものが落ちていた。刃あたり二十センチぐたいのジャックナイフである。(なんでこんな物騒な物が・・・)われわれ三人組は背筋がぞっと寒くなるのを覚え、足早にホテルへと向かった。この辺では、こんなナイフの類があちこちで目につく。(何かとても怖そう)の主人、バス・タクシーの運転手、店のオーナー、学校の先生や生徒、これらはみんな黒人であった。 われわれは夕方近く、ワシントンの街をぶらぶら歩いていた。ワシントン広場の見学を終えて、ホテルへ帰る途中であった。通りを歩く人々はやはり黒人が多く、薄暗いときには何か不気味な感じを与える。歩きながら、足に何かがつっかかる音を耳にした。何だろうと思って下を見ると、「あっ」と叫ばざるを得ないものが落ちていた。刃あたり二十センチぐたいのジャックナイフである。(なんでこんな物騒な物が・・・)われわれ三人組は背筋がぞっと寒くなるのを覚え、足早にホテルへと向かった。この辺では、こんなナイフの類があちこちで目につく。(何かとても怖そう)
2月1日から上記の連載を開始しますのでどうぞお楽しみに!!
ラ・ガーディア空港から飛行機で約一時間ほど行くと、ポトマック河畔にワシントン空港がある。われわれはワシントンに着いてから、その景色の素晴らしさに驚かされてしまった。きちんと区画された道路、緑がたくさんある街、公園が大きくその周りに人々が生活していること。この他にもまだある。ここワシントンD・Cはアメリカの首都であるが、ニューヨークのような高層ビルはなく、博物館や美術館、国会議事堂、図書館などが多くあり、大統領の官邸でもあるあの有名なホワイトハウスもある。これ以外はほとんどが人々の生活する住居となっていた。また、もう一つここに来て驚かされたことがある。街は住宅と政府の建物が見事に調和し、とても美しいのであるが、(街の美しさはおそらくアメリカ一、二だろう)ここに住んでいる人達は、ほとんどが黒人であったということだ。全人口の九十パーセントが黒人であり、あとの十パーセントが白人と中国人だということだ。われわれが街を歩いていても、見かける人々はほとんど黒人であるため、アメリカに来ていながら何だかアフリカの街にいるような錯覚に陥ったようだった。
翌日、ニューヨークは爽やかに晴れていた。八月とは言っても暑くなく初秋のように実に爽やかに空が澄んでいた。肌に当たる風は、実に清々しく気持ちのよいものであった。われわれはホテルを出ると、国際連合の本部へ赴いた。ここで二時間ほど見学した後、ワシントンへ向かうためにラ・ガーディア空港へとタクシーを飛ばした。
後で知ったのであるが、われわれが歩いていた一画で、連続通り魔殺人事件が頻繁に起こったという。(日本に帰国してから知った事件) ぐったりしてホテルに着くと、真っ先に腹ごしらえのためにレストランへ飛び込んだ。厚さが二センチ以上の大きなビフテキを頼んでも、千円ぐらいで食べられるのだ。とにかく日本と比べると牛肉は全く安いのである。これ一つだけでも腹一杯になってしまうほどだ。この時期になると、苦い経験のあるハンバーガーはもう食べずに、もっぱらビフテキだけを注文するようにした。
地下鉄を降りると、外は真っ暗だった。夜のニューヨークはビルのネオンサインでとてもきれいだ。超高層ビルの窓から漏れる灯りは、何か別の世界を思わせるものがある。しかし、その反面では、とても汚いところでもある。地上に目をやるとゴミや紙屑が道路のあちこちに散らばり、風に飛ばされている。また一方では、パトカーのサイレンがひっきりなしに鳴り、とても騒々しいものである。聞くところによると、世界最大の犯罪の街だという。われわれが歩いている時でも警察官が、道路のあちらこちらで何かの取り調べを行っており、怪我人が救急車で運ばれていった。
地下鉄の中は大部分が黒人であった。この電車の終点は、黒人が多く住んでいるハーレムであるから乗客は黒一色である。二十四時間営業の地下鉄であるが、夜は本当に危険らしい。 白人はほとんど途中の駅で降りてしまうので、その後は酔っぱらいの黒人や麻薬中毒の黒人が多いからだ。別に黒人を差別するわけではないがやはり、犯罪を犯すのは黒人が多いということだ。
港の近くのバッテリー公園で遊ぶ子供達を横目に、われわれはウォール街を通り、再び地下鉄駅へと向かった。もう、辺りはすっかり薄暗くなっていた。地下鉄の駅の中のポスターに目をやると、こう書いてあった。『もしあなたが明るいうちに家に帰らなければ、あなたは二度と家にたどり着くことはないでしょう」ある映画のポスターらしいが、われわれはぞっとして足早に地下鉄に乗り込んだ。
船がスタッテン島に着いた。乗船客は足早に船から降りていった。私はしようがなくまた元の場所に引き返す時間がくるまで、ボケッと腰を下ろして待っていた。その時、辺りを見回してみるとやはりはぐれたはずの友人が、私と同じように放心状態でベンチに座っていた。三人がまた一緒になったのであるが、何か気が抜けて話をする元気もなくなっていた。そんなわけでわれわれ三人組は、またホワイトホールにあるフェリーボートの乗船駅へ引き返したのである。「よし、今度こそは間違えずにリバティ島へ行く船に乗ろう」と三人組は意気込んで別の乗船口に行ってみた。だが、またしてもわれわれは気を抜かれてしまった。キップ売り場の窓口に『本日の発売はもう終わりました。また明日のお越しを』もうここまで来たら、何も言う言葉も出ない。われわれ三人組は、夕焼け空の海を見ながら、とぼとぼとホテルに引き上げるより他になかった。
ところがである。船は次第に女神のある島に 近づいている。しかし、一向にスピードを緩める気配がないのである。見る見る間に船は、島を素通りしてしまった。(あっ、何てこったぁ。こんなバカな。)私は、信じられない気持ちで近くにいた乗船客に尋ねてみた。「この船は、リバティ島に行くんじゃないのですか」「オーノウ。この船は自由の女神像へは行きませんよ。向こう岸のスタッテン島へ行くのですよ。あなたは乗り場を間違ってしまったのです。可哀想に」一瞬ドキッとしたが、思い直して気を取り戻そうとした。しかし、何となく癪であり、まるで自由の女神像が私をからかうように、松明を持っている手で「バイ、バイ」をしているように見えた。(ああ、またしても失敗をやらかしてしまった。どうしてこうもドジなんだ。ああ、情けないやら)
風がビュービューはいる地下鉄は、やがてホワイトホールの駅に到着した。ここはマンハッタン島と大陸とを結ぶ連絡船が、行き来しているターミナル駅となっていた。地下鉄を降りるとわれわれは、自由の女神像のあるリバティ島へ行く船に乗るために、駅のキップ売り場へ向かった。この船には大勢の乗客が乗り混んでいたため、数分後にはもう既に満員となってしまった。われわれ三人組は、離ればなれにならないように、しっかりとお 互いの手を握り合っていたのだが、どういうわけかあまりの混雑さにお互いを見失ってしまったのだ。(どうせ自由の女神像のところに着いたら、また会えるんだ。そんなに気にするものでもない)と、私は心の中で呟いた。
地下鉄の電車の外側は、傷や落書きだらけ。中はもっとすごいペンキの落書き。それも全車両にわたっていた。また、以前は座席の部分が、日本と同じようにスプリングが入っていてフワフワしていたのだが、乗客にナイフでずたずたに切られてしまうので、現在は木のベンチのような椅子に変えたそうである。地下鉄の窓はいたるところガラスが欠けていたり、無かったりしていた。三人組を乗せた地下鉄は、静かに動き出した。ところがその瞬間、私はびっくりしてしまった。なぜならドアの近くに立っていた私なのだが、ドアが閉まって動き出したその時に、突然ドアの窓ガラスが外れ、レールの下にガシャンと落ちてしまったからである。それでも、周りの乗客は何もなかったように、平気で何食わぬ顔をしていた。アメリカの地下鉄ではこんなことがしょっちゅうなのだ。
われわれは、エンパイアーステイトビルを下りると、今度は自由の女神像のあるリバティ島へ行くことにした。この像はアメリカが独立した時に、フランスから贈られたものである。ここはマンハッタン島とは別の島になっているので、船で行かなければならない。まず、エンパイアーステイトビルから地下鉄に乗り、島の端れにある連絡船乗り場まで行くことにしたわけであるが、われわれはこの地下鉄には、度肝を抜かれてしまった。噂にはひどいということを聞いていたが、これほどまでにひどいとは予想だにしていなかった。
われわれ三人組が夢中になって、カメラのシャッターを押していたその時、突然強い風が展望台を襲った。友人の一人がかぶっていたルンペン帽が、その強い風に奪われ、空高々とエンパイアーステートビルの上から、空に舞ったのだ。その友人は、飛ばされていく帽子を眺めながら、ただ呆然としていた。その時、この展望台に上っていた数多くの見物人(ほとんどがアメリカ人)が、大歓声をあげたのだ。見物人達の目は、飛んで行く帽子に集中した。まるでUFOが飛んでいるようであった。友人が、「母さん、ぼくのあの帽子、どこへ行ったんでしょうね」と、言っていた。(下の写真の左側の友人がかぶっていた帽子)
翌日われわれは、朝早く起き朝食を済ませてから、エンパイアーステートビルへ向かった。ここは以前世界一ののっぽビルとその名を世界に誇ったが、現在ではシカゴのシアーズタワー、ニューヨークの貿易センタービルに追い抜かれて、世界第三位ということだ。しかし、今でもニューヨークの名所として、アメリカ全土からその高さを味わおうとして数多くの観光客がやって来ていた。われわれは西部からやってきた団体客に交じって、このビルの展望台までエレベーターで上った。百階以上の高さで、東京タワーよりも高い高度から眺めた景色は、まさに格別であった。通りを歩く人々は蟻のようであり、車は豆粒よりももっと小さく見える程だ。ニューヨーク全体が一目で見渡せ、イースト川とハドソン川に囲まれた小さな島であることが、手にとるように分かった。
実はこのホテルに決まるまで、かなりの時間がかかった。最初ホテル側では、一人当たり百ドルを要求した。つまり一部屋借りるのに三百ドル(約六万円)かかるというのだ。予約した時の金額と違っていた。われわれはこれではあまりにも高すぎるとして、もう少し安くならないかと頼んでみたが、どうしてもホテル側は、承知してくれなかった。われわれ三人組は仕方なしに、渋々引き上げようとした。しかし、その時思いもよらぬ幸運がやってきたのだ。ホテルの中から日本語でわれわれを呼び止める声がした。何とこのホテルで働いている日本人なのである。この人はわれわれに、「何とか安くしてあげるから、ここで泊まってください。同じ日本人なのだから、ご安心なさい」 と、言ってくれたのだ。そんな訳でわれわれは、このホテルに何と六十ドル(約一万二千円)で泊まれたのだ。一人分は二十ドルでオーケーであった。思わぬ幸運にわれわれは、飛び上がって喜んだ。部屋に入ってみるとさすがに最高級と呼ばれるだけあって、何もかも豪華で贅沢であった。
われわれ三人組は、すぐにこの公園を離れ、この日は真っ直ぐホテルに引き返すことにした。翌日、われわれは地下鉄に乗ってエンパイアーステイトビル を見学し、その後船で自由の女神像のある島に行くことにした。その日、われわれが戻ったホテルは、ニューヨークのど真ん中にある最高級のホテルであった。ニューヨーク五番街にあるセントレジス・シェラトンである。ニューヨークの通り名は、南北に走る通りがアヴェニュー、東西に走るのがストリートと呼ばれている。ついに、誰もがニューヨークで一度は宿泊したいと思う、あの歴史ある憧れのホテルにやってきたのだ。
「ああ、なんだこりゃあ。ちくしょう」 その背中についていたものは、何と人のうんちだったのだ。通りでものすごく臭いにおいがした訳だ。しかし、この美しい景色とは裏腹に、よくもまあこういう汚いものがあるものだ。これではこういう美観も台無しではないか。こんな所でいつの間にするのであろう。被害者の友人は、急いで公園内の水飲み場に行き、シャツを脱いで洗濯を始めた。また体に染みこんだ臭いをなくすために、裸になってタオルでごしごしと拭き取っていた。それを見たわれわれ二人は、呆気にとられしばらく黙っていたのだが、そのうち思わずその滑稽さに、ゲラゲラ笑ってしまった。まあ、それにしてもこの友人は、本当に気の毒である。カバンを盗まれたり、汚いものの上に寝たりで、とんだ災難ばっかり。
その一画であるチーム同士がソフトボールの試合をしていた。われわれはそれを見守る見物人達に交じって、寝ころんでこの試合を見ることにした。とてもいい気持ちでうとうとと目が閉じそうになり、昼寝が始まろうとしたその時、突然変な臭いが風に乗ってやってきたのだ。もうこの臭いにはわれわれ三人組もがまんできなくなり、思わず立ち上がってしまった。いったい何の臭いだろうと私は、鼻をふんふんとならしながら、臭いのくる方向を捜し求めた。そうするとどうだろう。この臭いの原因は、すぐ間近にあったのだ。サンタモニカでカバンを盗られた友人が突然、自分の背中に付いているものを手繰り寄せてこう叫んだ。
上を見上げてみると五十階以上もあるビルがぎっしりとその頭を並べていた。恐らくこのマンハッタンは土地が狭いため、どうしても高くしないと多くの人がいられないためであろう。ニューヨークの街は、きっちりと道路が整備されているため、とても簡単に目的地に行けるのだ。 まずわれわれ三人組は、マンハッタンの真ん中にあるセントラルパークに行ってみることにした。ここは、巨大な摩天楼が建ち並ぶ所を通り越すと、南北四キロ東西八百メートルにも及ぶ大きな公園が、目の前に広がり大都会の慌ただしさを忘れさせてくれる憩いの場である。公園の中の小さな道を馬車が行き交い、それを追うようにして犬を連れた散歩の人々が行き交う。この中には何でもある。動物園や博物館があり、野球場、フットボール場、ボートにボウリングそして、プールに乗馬と数えるときりがないほどである。緑の芝生が一面に敷き渡り、うっとりするぐらいすばらしいものである。
八月十五日、われわれはまずくて喉に通らないほどの朝食をすませてから、気持ちを新たにニューヨークの中心地に向けて出発した。ニューヨークはマンハッタン地区、クイーンズ地区、ブロンクス地区と分かれているが、巨大な摩天楼が建ち並ぶところは、そのうちのマンハッタン地区で小さな島の上に、この高層ビル群が立ちはだかっているのである。 バスで一時間ぐらい行くと、曇り空の下バスの窓からぼんやりとニューヨークの街が目に映った。どのビルも先が尖っていて、まるで空を突き刺すように見えた。小さな島の上にぎっしりというほど、超高層ビルがところ狭しと並んで、まさにコンクリートジャングルである。バスがターミナルに着いて運転手さんがわれわれの荷物を、バスの中にある荷物置き場からとって渡してくれた。さあ、いよいよニューヨークの中心街に来たのだ。
われわれはこの味気ない朝食をすませると、仕方なしに出かける準備をした。その時、われわれの席の隣りのアメリカ人が、われわれと同じハンバーガーを注文した。ところがである。このアメリカ人にきたハンバーガーを見てみると、野菜、ピクルス、チーズにそれから味付け用のトマトケチャップにマスタードと、われわれと比べようもないほど、たくさんお皿にのっていた。何とこれはどういうことなのか。つまり、この国ではこちら側が何も要求しないと、何もしてくれないのである。水だって持ってこいと言わなければ絶対に持ってきてくれないのだ。これがニューヨークでの最初の朝であった。
目が覚めて窓の外を見ると、空はどんより曇っていた。われわれは身支度をすませると、朝食を摂りにホテルにあるレストランに赴いた。メニューを見ながら食べるものを決める相談をした後、全員一致でハンバガーを注文することにした。ところがハンバーガーがきてみると、われわれは驚いてしまった。パンの間に野菜やチーズやハンバーグが入っていると思ったのに、一枚のお皿の上にパンが一つとハンバーグが一つだけのっていた。この他には何もこなかっった。われわれは仕方なしに、何の味もしないハンバーガーを、パクパクと食べた。私はがまんして全部平らげたが、友人の一人は、食べている途中に気持ち悪くなり、半分以上も残してしまった。水も飲もうとしたが、テーブルの上には何も置いてなかったので、飲むことはできなかった。
ニューヨークは、午後九時だというのにまだ薄明るかった。日本の緯度から考えると青森市あたりの位置と同じくらいだということである。われわれはケネディー空港に足を踏み入れると、ホテルから迎えに来るリムジンバスを待った。空港付近はただ広いばかりで周りには何もない。ニューヨークというと巨大な高層ビルを思い浮かべるが、これを見るためにはここから、一時間ぐらい車で移動しないとだめなのである。 リムジンバスが迎えに来た。さあ、いよいよニューヨークだ。着いたその日は夜も遅かったので、空港近くのホテルに泊まることとし、翌日摩天楼のあるマンハッタンに向かうことにした。
さて、翌日、われわれは苦い思い出ばかりのロスアンゼルスを後にして、八月十四日正午にニューヨークに向けて出発した。アメリカ大陸横断のため、時差を考えねばならないのである。ロスアンゼルスからニューヨークまで飛行機で五時間あまり。その上時差が約四時間違うため、実際にニューヨークのケネディー空港(JFK)に着いたのは、午後九時近くになっていた。つまりわれわれは、飛行機に乗っているだけで、一日の四時間を損した計算になる。そういう訳で、広大な大陸ではいつも時差を計算して旅をしないと、思わぬ誤算が生じてくるわけだ。
先生のアメリカ見てある記 その二 ニューヨークの巻 ところが、またしても頭にきてしまった。三人分のベッドを頼んだはずなのに、一人用のシングルベッドしかないのだ。「何てこった。くそお、あのハゲおやじめ」 その夜はどうにかこうにか一つのベッドに三人で寝たのであるが、朝起きてみると背筋が痛くて仕方なかった。私は真ん中に寝たので助かったが、友人の一人(バッグを盗まれた人)は一晩のうちに何度ベッドから落ちたか分からないと、ぶつぶつとこぼしていた。あの悪夢のような出来事が、寝落ちであったらさぞかし良かったのに…。
ホテルのロビーに入って、泊まる手続きをとろうとした時であった。クラーク(ホテルの受付)は、じろじろとわれわれの野暮ったい姿を見ている。ところが、見るだけでまったく相手にしてくれないのだ。われわれの後に来た客達は、次々に手続きを済ましてそれぞれの部屋に消えて行った。もう、われわれは頭にきてしまっった。何という差別だ。日本人だと思ってバカにしているのか。そこで、私と友人の一人は約一時間に渡り、なかなか通じない英語で言い合いした。「私たちは遠い遠い海の向こうの日本から、はるばるやって来たのだ。ここでこんなことをされたのでは、私たちは何としたらよいのか分からない。もし、部屋が空いているのであれば、どうしても泊めてもらいたい」というようなことを。その結果、やっとの思いで部屋がとれ、ふらふらとした足取りでわれわれの部屋まで行ってみた。
ロスアンゼルス空港へは、夕方近くにたどり着いた。翌日の正午に出発するので、この日は空港近くのホテルに泊まらなければならなかった。しかし、またしても厄介なことが起きてしまったのである。この時われわれは、薄汚いジーパンをはいて、背中に大きなリュックサックを背負うという格好であった。この方が色々と大きな大陸を移動するには、便利だと考えたからだ。
彼の家からアメリカの銀行にお金が届いた。さあ、これからやり直しだ。気を取り戻してわれわれは、ニューヨークに行くためにロスアンゼルス空港へと向かった。それにしても、ロスでの思い出は、人生の中で忘れられないものの一つになった。
しかし、カバンは戻ってくるはずもない。われわれはホテルに着くと、次のことを考えねばならなかった。さて、どうしたらいいものか。このままでは全く動きがとれない。そこで考えに考えたあげく、やっぱり日本からお金を送ってもらわない限り、だめだと結論づけた。早速、国際電話をかけ、日本の彼の自宅に連絡したが、その時の彼の母親はとても驚いて言う言葉も無かったそうである。 そんな訳で、われわれはこの三日間は、ホテルと警察署、日本領事館の往復で他にどこも行けなかった。予定していたディズニーランドも行けずじまいに終わってしまって、多少残念であったが、なかなか経験できないこと(二度と味わいたくないが)を味わうことが出来た分、喜ぶべきであろうか。
三十分ぐらい歩くと、サンタモニカ警察署に着いた。制服を着た三人の髭をはやした警官が、ガムをかみながら偉そうに腰掛けていた。チルトンさんはこれまでのことを全てこの人達に話してくれ、盗まれた物を一枚の用紙に一つ一つ書いてくれた。 警察署を出るともう真っ暗だった。チルトンさんは何度も何度もわれわれを励まし、タクシーを拾ってわざわざホテルまで送り届けてくれたのだ。私は何とお礼したらよいか分からないほど、そのアメリカ人の親切さには、ただただ心を打たれた。最初、カバンを盗られた時には、何とこの国は恐ろしい国だと思ったりしたが、チルトンさんに出会ってからは印象も変わり、何かとても複雑な国だなあと思わざるを得なかった。
同じバスを待っていた人の中に、フランク・チルトンさんという人がいた。サンタモニカでの仕事が終わり、ロスアンゼルスのわが家に帰るところだった。この人はわれわれの困った顔に気付き、向こうから尋ねてきた。カバンを盗られたと答えると、そりゃ大変だという表情をして、一緒に捜し回ってくれたのだ。しかし、いくら捜してもカバンは見つかるはずもない。そこでチルトンさんは警察に行こうと言い出した。こうして三人組はアメリカ人の紳士に連れられて、サンタモニカ警察署に足を運んだ。
そんなカバンが盗まれたものだから、もう大変な騒ぎである。しかし、誰が盗ったのか人通りの多い往来では、見つけようがなかった。われわれはただ呆然とするより外になかった。美しい街の風景も、この事件が起きてからは、われわれの目には灰色の世界に変わった。しかし、何とアメリカという国は恐ろしいものだと狼狽えた三人組にも味方がいたのだ。われわれは、そのアメリカ人にこの後大いに助けられた。
夕方近くになっって、われわれ三人組はビーチを離れ、ロスアンゼルス行きのバスを待っていた。街にはローラースケートで遊ぶ子供達やパンツ一丁で裸の、ランニング最中のおじさんの姿が、あちらこちらで見受けられた。こんな美しい夕暮れ時、事件は突然にやってきたのだ。私の友人の一人が突然こう叫んだのである。「あっ、おれのカバンがない」 われわれが地図を広げて見ていたちょっとした隙に狙われたのだ。カバンの中には、8ミリ、カメラ、現金、そしてパスポートに航空券と大事な物ばかり入っていたのだ。全部合計すると、少なくても五十万円は優に超える。正に晴天の霹靂である。
さて、翌日はサンタモニカへの海水浴に行くのであるが、思わぬ災難がわれわれを待ち構えていたのである。 サンタモニカは、青々と晴れあがっていた。ビーチにはカモメが飛び交い、そして椰子の木が海を見下ろす高台に、美しく立ち並んでいた。われわれ三人組は急いで裸になり、海を目がけて飛び込んで行った。が、その瞬間、体中が凍えそうになってしまった。実はこの海、寒流のカリフォルニア海流が流れていて、あまり泳ぐには適していないようであった。それに気づくと、なるほどここにいる人達(肌が白い者、黒い者、褐色の者)は、泳がないで浜辺に寝そべり、日光浴をしている様子が見渡せた。しかし、われわれは寒さに負けず、根性で泳ぎ回った。
しばらくするとリムジンバスが、空港まで迎えに来てくれた。この日は、ロスアンゼルスの有名な所を回ってホテルに行く予定であった。映画で有名なハリウッド、メキシコ人がたくさん住んでいるオルベラ街、ロスアンゼルス大学UCLA、日本人が住んでいるリトル東京等を回る計画である。 しかし、それにしてもロスアンゼルス市はとてつもなく広いのである。一つの市の中に東京都がすっぽり入ってしまうほど、その広さにはびっくりさせられた。また、ロスアンゼルスほど空気の汚いところはないらしい。実はスモッグという言葉は、ここから生まれたのだ。自動車の排気ガスで街はどんよりしており、おまけにすごい暑さである。何となく嫌気がさした。ホテルに帰るともう夕方、われわれ三人組はもう完全に疲れ果てて、すぐにベッドに潜り込んだがなかなか寝付かれなかった。
数分後、アメリカ入国の手続きを済ます所にやってきた時だった。二人連れの日本人らしい男女に「どこから来たのですか」と声をかけると、二人ともきょとんとしてこちらを見るばかり。(ああ、この人達は日本人ではないな。これは失敗・・・)今度は言葉を換えて英語で言ったところ、どうやら台湾から来たことが分かった。しかし、それにしても日本人とよく似ているものだ。 厳しい入国検査を済ませると、ホテルに行くバスに乗るために空港から出た。その瞬間思わず叫んでしまった。「うああ、何て暑いんだ」もう汗はびしょびしょ、おまけに時差ぼけが手伝って、どうしようもなくだるく感じた。八月十日の五時四十五分に日本を出たはずなのに、ロスアンゼルスではまだ十日の午前十一時なのだ。ああ、また一日のやり直しだと思うと、普通ならば喜んでいいはずなのに、この時ばかりは疲れのために、とにかく寝たい気持ちであった。(でも、何とか無事に着いたんだ。よおし、がんばらねば・・・)
出発してから十時間あまり、一面の雲の世界からお別れするときがやってきた。飛行機の窓から遙か向こうに、ぼんやりと北アメリカ大陸が浮かび上がってきたのだ。(ああ、とうとうアメリカに来てしまったのだな。日本はずっと遙か彼方に行ってしまった。よおし、この目でこの国を見てやるぞ)という気持ちは、誰人にも分かるほどとても緊張したものであった。さあ、いよいよ着陸だ。ロスアンゼルスの空港が眼前に浮かび上がってきた。飛行機の高度が急に下がったかと思ったとたん、真っ直ぐな滑走路が眼下に見えてきた。出発してから十時間あまり、一面の雲の世界からお別れするときがやってきた。飛行機の窓から遙か向こうに、ぼんやりと北アメリカ大陸が浮かび上がってきたのだ。(ああ、とうとうアメリカに来てしまったのだな。日本はずっと遙か彼方に行ってしまった。よおし、この目でこの国を見てやるぞ)という気持ちは、誰人にも分かるほどとても緊張したものであった。さあ、いよいよ着陸だ。ロスアンゼルスの空港が眼前に浮かび上がってきた。飛行機の高度が急に下がったかと思ったとたん、真っ直ぐな滑走路が眼下に見えてきた。
新 米 先 生 奮 闘 記 先生のアメリカ見てある記 その一 ロスアンゼルスの巻 一九八〇年八月十日、午後五時四十五分、私は生まれて初めてのアメリカ大陸を目指して、成田空港を出航した。日本航空のジャンボジェットに乗り、太平洋横断の旅に出るのだ。何となく不安な気持ちもあったが、それ以上に期待が大きく無用な不安は取り除かれるといった具合である。
北サハリン抑留記を掲載します!
ご愛読ありがとうございました!
北サハリン抑留記です!これは、体験に基づく実際の手記を掲載します。当時、大学のゼミの先生から伺ったお話です。ウクライナ戦争が続いている今だからこそ、ロシア(旧ソ連)が行ってきた歴史上の出来事を再現することによって、一日でも早く戦争が終結してほしいとの思いから掲載することにしました!
特別編
2023年9月27日の読売新聞から 抑留死 モンゴルに新資料 第二次世界大戦後のソ連によるシベリア抑留で犠牲となった日本人のうち283人の氏名や死因が記された資料が、モンゴルの首都ウランバートルにある国立公文書館で見つかった。厚生労働省は「抑留死の状況がわかる貴重な文書」とし、犠牲者の身元特定のため日本に残る資料との照合作業を進めている。 読売新聞の記者(井手裕彦)時代から抑留問題を取材してきた北海道在住の記者が、2020年1月にこの資料を見つけた。 シベリア抑留とは、満州(現中国東北部)などにいた日本兵ら約57万5000人が捕虜となり、ソ連やモンゴルの収容所(ラーゲリ、ラーゲル)に連行された。重労働にかり出され、約5万5000人が死亡。モンゴルでは約1万4000人が抑留され、約1700人が亡くなったとされる。
北サハリン抑留記(43) 一九四九年十一月一日だったと思うが、その日に各自最寄りの共産党本部(または支部)に出向き、入党するようにとの約束が、復員船高妙丸の中で交わされていた。(強制力を伴ったものではないけれども)われわれは一九四九年九月末に復員し、私は既に某市の市営住宅に家族と一緒に住んでいたが、その十一月一日には早朝から両親の長兄も弟も、無言のまま私の一挙一動に神経を尖らせる風であった。私は内心、党本部に出向くつもりはなかったが、なぜかそのことを家族にうち明ける気にもなっていなかったのだ。それで夕刻まで遂に私が家から一歩も出ず、共産党に入党する意志がないことが確認されると、家族の者はすべて無言のまま、安堵の息をついたのだった。(完) ご愛読ありがとうございました。
北サハリン抑留記(42) なぜならば帰国後私と同年輩の若者達の何パーセントかは共産党に入党し(正確な人数は私は分からない)、今日まで活動を続けてきただろうからである。今までのところ共産主義は、人間に幸福を与える制度として長期的に見て失敗こそしても成功していないが、彼ら同年輩の若者達は、その制度の実現に命を懸けたのであるから、どうして軽蔑なぞできようか。
北サハリン抑留記(41) 私の見るところでは、社会革命の第一歩は既存のブルジョア支配階級、それが作る体制の憎しみから始まるようだ。したがってラーゲルの中ではその憎しみをもたない者がターゲットになったこともある。いわゆる吊し上げである。人間的に深みのある温厚な好人物が、最大の悪人に仕立てられ若者達は彼に向かって、口々に批判、非難の叫び声を上げるのだった。それが革命精神の昂揚につながるという。吊し上げによる革命精神の昂揚は、中国の文化大革命が少なくとも表面から見て、世界最大規模のものと考えられるが、私はラーゲルの中での革命のための訓練に対して、半ば批判的でありながら、他方それをある程度肯定しないわけにゆかないのである。
北サハリン抑留記(40) 最後に、四年間の抑留生活の四年目の一年間に盛り上がった、プロレタリア民主主義に触れないわけにはゆかない。ラーゲルの中には唯物論に関係ある何冊かの哲学書や歴史書などがあった。特に病気で医務室のベッドに厄介になっている時にそれらを貪り読んだものだが、結論を言えば私は唯物論に対して失望したのだ。人間の精神は物質の最高所産であると定義づけていながら、唯物論から精神に対してそれ以上の説明を期待できなかったのである。にもかかわらず、民主運動は私の思惑などとは無関係に、ある日突如始まったのだ。ラーゲルの中で平穏な日々を過ごしていた、同年輩の若者達が生活の変革、自己の改変を言い出した。北サハリンのわれわれもソビエト本土に連行された六十万人の旧関東軍に組み込まれており、主として日本新聞(日本人捕虜用の日本語新聞)を通して思想教育も行われてきたのだ。
北サハリン抑留記(39) アメリカ社会でも医師、技術者、物理学者、化学者、文学者等、ユダヤ系知識人の数が全体の比率から見て圧倒的に多く、旧ソ連社会のユダヤ系知識人とアメリカ社会のそれとが協力すれば、世界の本物の平和が極めて強固になると考えられるのである。恐らく現在すでに両者の協力関係が、われわれの想像を超えるほど進んでいるように思われ、またそうであることを希望しないわけにはいかないのである。
北サハリン抑留記(38) しばしばヒステリーを起こして日本人の衛生兵をなげかわせていたが、美貌であったけれどもどこか険があるように感じられた。また男の軍医はパッチリ澄んだ瞳が印象的で、頭がよく英語の達者な好男子であった。 ところが、ソ連の労働者達は嫉妬心も手伝ってか、ユダヤ人一般に好意を抱いていなかっった。ユーレイ、ヘータレ、ヘータレ(ユダヤ人はずるい、ずるい)という言葉が作業の休憩時間によく聞かれたものだ。当時の外務大臣モロトフは、ユダヤ系と言われながらスターリン以上に人気があったにもかかわらず。私がユダヤ系ソ連人に注目したのにはそれなりの理由がある。現在冷戦が終わり、ソ連社会がロシアやウクライナ等の非社会主義体制の国々に変貌したからには、知的職業に携わるユダヤ系の旧ソ連社会の住民は、アメリカ社会のユダヤ系の人達との接触が容易になったからである。
北サハリン抑留記(37) 抑留生活後間もなく気づいたことの一つは、ユダヤ系ソ連人の中には筋肉労働に従事する者は少なく、事務をはじめ知的労働に従事する者が大多数であるということだっった。医者、技術者、工場の事務員並びに責任者には多くのユダヤ人が見うけられた。彼らの風貌、特にカギ形の鼻、わし鼻で大体見当がつくが、ある日、食糧倉庫内の整理に出かけたところ、企業のかなり上層の責任者らしい、わし鼻の中年の紳士がわれわれの指揮を執った。われわれがぶつぶつ不平を言っても相手にされず、適当にあしらわれ巧みに長時間袋担ぎなどをさせられたものだ。彼は明らかにユダヤ系ソ連人で、忍耐強いしたたかな精神の持ち主であることを感じさせた。最初のラーゲルでわれわれの健康を管理した、それぞれ男女の軍医は二人とも美形であったが、ユダヤ人との噂があり女医の方は、男の将校達との恋愛に明け暮れ、それを楽しむのではなくむしろ、男性征服の手段にする趣があった。
北サハリン抑留記(36) 抑留されて三年目の冬に、私は別の作業班に交じってこの丸太引きの作業をやったことがある。その時の船頭役は、中年に近い一癖ありげな旧上等兵で、ソ連の歩哨がタバコを吸っているのを見かけると、すっ飛んで行き、ダワイ、タバコ(タバコをくれ)と言うと同時に、タバコを自分の手に取り上げる妙技をもった男だが、その彼が私の網の引き方が足りない、力の出し惜しみをしている、ずるい等々、絶えず私を罵り非難したので、私も「そんなことはない。自分なりにやるだけのことはやっているんだ」と抗弁しても、あまり効き目はなかった。確かに外面から見て、へっぴり腰でピクピクと下半身を動かすだけの私の仕事ぶりでは、サボっていると見られても止むを得なかったかも知れないが、結局私は力尽き、熱を出し一ヶ月以上も作業を休まなければならなかった。私は私なりに力の全てを出し尽くしていたことを身をもって証明したことになる。
北サハリン抑留記(35) タイガでの仕事には、各自切り集めた丸太の山をもっと大きく集積したり、トラック、トラクターに積み込む仕事もあった。また個人で取り扱うことができないような長くて太い丸太は、数人がかりで網をつけて引っ張るのだが、その際金棒を手にした船頭が必要になる。彼はわれわれが引きずる丸太を、あらぬ方向に転がさないように、引き手の調子に合わせて方向の微調整をやるのだが、この仕事が案外大変なのである。細かな神経を使うと同時に、てこの力を応用して重い丸太を金棒で操らねばならないからである。体力と気力の両方を必要とするので、私は四年間の抑留生活の間に、一度もこの仕事を引き受けたことがない。
北サハリン抑留記(34) 古い木製の石油採掘の櫓を倒した後、新しい鉄製の背丈の低いポンプを据えるのだが、その仕事の前に高さ二メートルほどの木の枠を、石油が噴き出しはずの孔の周囲に取り付ける仕事を行った。それはまず四方に杭を立てるための穴掘りから始める。金棒を使って固い岩盤を崩しながら、穴を掘り下げるのだが仕事が捗らない時は、穴掘り作業を諦め杭を立ててから穴に水を入れ、氷らせることによって補強することもあった。(これは明らかにごまかしであったが) 二〇二三 九月二日 読売新聞の記事より 厚生労働省は一日、第二次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域とモンゴルで死亡した日本人抑留者十二人の身元を特定し、氏名や出身地などを公表した。身元が特定された人たちは次の通り。問い合わせは、同省援護・業務課調査資料室(〇三・三五九五・二四六五)とあった。
北サハリン抑留記(33) 私自身と鋸をひいた相棒は、寒さのせいもあって必死になって仕事を進めたつもりだが、積み重ねられた丸太の山はすぐれた仲間達の半分にも満たないのが常であった。 丸太切り出しの作業に比べて、雪かきの方がまだ楽であったし、他の仲間と比べて私が著しく作業能率が劣るということもなかった。それは、鉄道路線上の雪を線路に沿ってその片側に積み重ねていく作業であった。二十名ほどの仲間が、一定の間隔をおいて線路上に一列縦隊に並んで、一斉に仕事を始める。シャベルは簡単な物であったが、柄が長かったおかげで雪がかなりの高さに積み上げられても、更にその上に容易に積み重ねることができた。作業が終わる頃になると、線路脇の雪の高さはわれわれの背丈の二倍ぐらい二もなったが、ただ一人某大学の学生だったといわれる兵士の周囲一、五メートル四方だけは、線路上に高さ一メートルほどの雪の山のまま、取り残されるのであった。彼は弁論部に所属していたとのことで話術に優れ能弁で、一度(ひとたび)口を開くや、極めて迫力のある名調子が響くのであったが・・・。
北サハリン抑留記(32) 柔道でも技だけでなく、肉体的な力の強さがかなりものをいうのである。ましてやタイガでの伐採、雪かき、穴掘り等の労役では、体力が基本になることはいうまでもない。真冬に二時間以上も歩いて、ようやく伐採の現場に到着できたこともあり、その後直ちに作業に取りかかるわけだが、どういうわけか私はいつも細めの貧弱な針葉樹を手がけることになっていた。太い、切り倒しがいのある大木は、とても手に負えないので本能的に貧相なものに足が向いていたのかもしれない。伐採はまず、二人でひく鋸で木の根本を引き倒すことから始まるが、その鋸をひくこと自体、私にとって決してスムーズな楽な作業ではなかった。その仕事の間中、苦痛そのものとの格闘の連続であった。切り倒してから直ちに、斧を使って枝はらいに取りかかり、それから決まった長さに丸太を切り、それを運び集める。
北サハリン抑留記(31) さて、私自身の北サハリンでの生活を省みる時、粗悪なソ連の国産品を笑ってばかりはいられない。というのは私自身も筋肉労働者としては、日本生まれとはいえ、劣悪な代物であったからだ。私は大学進学を夢見て、浪人生活を続けているさ中に、南サハリンの現地駐留部隊に招集された。その中には、私のような大学進学志願者や、内地からサハリンに帰省していた大学生自身も含まれていた。旧制中学校に通っていた頃、装備の費用が安いという理由だけから、私は武道の時間には柔、剣道の中から柔道の方を選んでいたが、柔道の先生は常に、柔道は力でやるものではない、あくまで技の問題だと説いてやまなかったが、私は非力であるためいくら技をかけても、相手がびくともしなかったことをいやというほど経験していた。
現代の最も華々しい文明の利器の一つに航空機があげられるが、ソ連では軍隊や一般民間人の輸送と並んで、政治犯を中心とする囚人達の輸送にも役立てられたと言っても過言ではあるまい。今から二十年前、まだ社会主義体制の崩壊していないモスクワ空港に立ち寄った時のことである。そこで垣間見たものは、それより三十年前のわれわれ日本兵捕虜の亡霊以外の何者でもなかった。一般旅行客の目につきにくい、一段フロアの低い片隅に、昔のわれわれそっくりの服装、すなわち分厚い毛皮の毛布の外套を着込んだ、百人近くの無骨な男どもが整列しているではないか。われわれの場合と異なる点といえば、彼らは美しい若い女性兵士に引きいれられていたことである。強大な国家権力を背景にもてば、銃を持っていない、か弱い一人の女性が百人の男達を支配できるのである。これを裏返して考えれば、彼らはただ一人の女性に対して、刃向かうことも出来ない、魂のぬけた存在、亡霊になってしまったということである。あれより三十年前のわれわれは、寄るべなき敗戦国の兵士であったため、戦勝国ソビエトに対して亡霊のような無力な存在になっていたのである。半世紀前のラーゲル生活では、衣食住のうち、住を除いては一般民間人と大差ない水準の生活だったようだ。しかし、魂の抜け殻となったこと、生ける屍となったことが北サハリンの寒さを耐え難いものに思わせ、飢餓感を倍加させたようだ。私はモスクワ空港の囚人達から、貴重なものを学びとった。
北サハリン抑留記(29) ソ連の国産の映画にも世界的に有名な傑作があることはいうまでもないが、ソ連の映画は、いわゆる教育映画でプロパガンダの手段であった。それに反してアメリカは、いうまでもなく娯楽映画が多く、観る者が単純に純粋に楽しむことが出来ればそれでよいのだ。われわれ自身でさえ、ソ連の教育映画にはやや食傷気味であった。ましてやソ連の民衆はなおさらのことで、したがって時折アメリカ映画が上映されると、映画館は大入り満員になるとの噂だった。
北サハリン抑留記(28) 作業場で活躍する機械類の中で、最大の仂らき手はトラクターであった。真冬でも比較的天候の穏やかな日中、甲高いトラクターの動く音が作業場に響くのは、われわれに元気を与え快いものだ。ところが、仂らき者のトラクターのほとんど全てがアメリカ製であったのだ。戦時中それは、連合国との契約により、直接戦闘に役立つ軍需物資のソ連への援助は、差し控えられ平和産業関連の援助が、主たるものであったためでもある。たしかに、アメリカ製のトラック、トラクターは優秀で、キャタピラーをはじめ金属部分のあちらこちらが、働く機会が多いためメッキがはげ、銀光りに輝いているのだった。ところが間もなく、作業場に登場したソ連国産のトラクター、スターリン号は、外見を見ただけでも四角張って野暮ったく、働いている時間よりも故障のため休んでいる時間の方が、はるかに長かったのだ。それは明らかにノルマに追われ、ただただ量産された使い物にならない代物だったのだ。アメリカ産のものが好まれ、自国産のものが嫌われるのは、トラクターに限られていなかった。その典型的なものは映画だ。
北サハリン抑留記(27) われわれ日本人の感覚では、北サハリンには夏は無い。彼らは一年中綿入れを着込んでおり、真夏のやや汗ばむ陽気の日でもそれを脱ぐことなく、胸のボタンを外して涼をとる程度であった。多少汗ばむ程度の陽気でも、綿入れだけでなく防寒帽もかぶったままなのだ。なぜならば六、七、八月といえども陽気の加減で、雪が降る日があるからだ。それにしても作業場からの帰途、われわれ日本人は上着と帽子を脱いで爽やかな気分で、日差しを凌いで歩いているのに、背後からついてくるソ連兵は、真冬の時とあまり変わらぬ服装のまま額に汗を滲ませているのだ。彼らはもちろん寒さには強いが、暑さにも強いのだろうか。
北サハリン抑留記(26) そして真冬には、外に出る際、われわれは軍靴やゴム長靴などを履かなかった。真冬には川も水たまりも、ともかく水を含むすべてのものが凍てつき、したがって衣類のすべてが、水分を吸う心配なく、フェルト製のワーリンという軽いブーツは重宝な物だった。ナチの軍隊の敗北の第一歩は、彼らがこの軽快な履き物の存在を、知らなかったためとも言えそうだ。
北サハリン抑留記(25) また、作業場では、われわれは空腹をかかえ、疲労も重なっているため、肉体そのものは労働を拒否しているにもかかわらず、身体を動かさなければ寒くてやりきれないが故に仂らかねばならぬ時もあった。作業の都合により仂らくことができない場合がある。トラクターが古い木製の石油の櫓(やぐら)をワイヤーで引っ張って押し倒す間中、私は一時間以上も寒風の中を立ちつくしていたことを思い出す。その際には、風に背を向け頬のあたりを凍傷にかからないよう両手でかばい、身体をこわばらせて時々足踏みしながら時を過ごしたものだ。
北サハリン抑留記(24) 寒さといえば、われわれは作業場に赴くに当たり、頭のてっぺんから足先まで防寒具に包まれているのだが、それでも耳の鼓膜が少し凍るらしく、耳に聞こえるすべての物音が、まるで海中に潜っている際に耳に届く物音のように、ややぼやけて聞こえたものだ。また、顔は凍傷にかからないように、目、鼻、口だけを残してその大部分をあらかじめタオルや手拭いで覆っているため、鼻や口から吐き出される息の中の湿気が、白い霜のようにまゆ毛や口の周辺の布に付着するのだった。作業に取りかかる前から、ラーゲルから一歩外に出た瞬間から、われわれの肉体そのものが、寒さとの闘いをはじめるわけである。
北サハリン抑留記(23) いかにわれわれは飢餓状態に苦しめられたかは、先にかなり詳細にわたって述べたが、それと並んでわれわれを苦しめたのはいうまでもなく、前にも触れた厳しい寒さである。 われわれは収容所の裏に、トイレを作ることになった。作業はツンドラの地面を三、四メートルほど掘り下げることから始まる。ツンドラの土壌は、柔らかなのでシャベルを使ってまるで羊羹を切るように、いとも容易に作業は進捗した。掘り終わった後、穴の表面にしゃがみ込んだ時、お尻がはまる程度の間隔を置いて、長い板を並べ横板で柵を作り、頭上に掘っ立て小屋風の屋根をのっけることで作業は完了する。これは大の方であり、小の方は、どう作ったか記憶にない。ところで、左右前後で用を足す者との境の仕切りは全くなく、極めて原始的な作りだ。真冬になると大便は体を放れて下に落ちると、間もなく凍ってしまい、まるで鍾乳洞の石筍(せきじゅん)のように次から次へと積み重なり、やがて板と板の間から顔を出すことになる。そうなれば、用は足せなくなるので金棒で突出部分を、突き崩す作業を行うことになる。確かにこれは余計な作業であったが、反面その寒さのお陰で全く悪臭に悩まされなかったのは幸いである。
北サハリン抑留記(22) 二、三百名の部隊の者達が、ただただ大人しくうつむき加減に静まりかえっていたのが印象に残る。あれは、「上官の命令は、朕の命令と思え」という軍人精神の名残りのせいだったのか、それともそれよりも、もっともっと深く明治以前のはるか遠い昔からこの島国の無辜の民衆の間に、備わってきたところのものだったのか。今の私にはそれをはっきり言い表す余裕はないが、どうも後者に近いもののような気がする。その後、それはラーゲル内の民主運動の盛り上がりによって、帰国時まで表面には見えないものになったけれども。
北サハリン抑留記(21) 抑留された翌年の真冬に、ある朝、元中隊⻑の初⽼の将校が、ソ連側の幹部からか⼿厳しい叱責をうけ、(われわれの作業上のノルマが⾜りないということだったかもしれない)零下三、四⼗度の悪天候にもかかわらず、われわれは同将校に、収容の広場に整列させられた。将校は激⾼しており、われわれが寒さのため出発をためっていると、「今朝はかなり寒いけれども働いてこい。たとえ死ぬ者がでてもやむを得ない。」と怒鳴って、⾃分のそばにいた数名の者をこづき回したりした。その⽇は、結局作業は取りやめになったが、あの時の将校のすごい剣幕に対して反抗の態を⽰さないどころか、怒りの視線を向ける者さえいない。
北サハリン抑留記(20) 私事はともかくとして、四十五年八月下旬にわれわれは捕虜として、ソ連軍の軍門に下って以来、われわれは彼らの命令に対しては極めて従順であった。旧大泊の小学校に集合したわれわれに対して、ソ連の若い歩哨の中には冗談半分に、逃げるチャンスは今しかないと言わんばかりに、手振り身振りで逃亡を勧める者もあったが、誰一人としてそのような誘いに従わなかった。これは正しい判断であったと今にして考える。なぜならば、出来心からとはいえ、そのようなソ連兵の暗示に引っかかったならば、その後にどのような惨事が待ち受けているか知れたものではないからである。歩哨自身、突如心変わりを起こし、パニックに陥り、逃げだした日本兵だけではなく、彼らとは無関係のわれわれにも銃口を向けたかもしれないからだ。
北サハリン抑留記(19) 話はさかのぼることになるが、四十五年八月十五日、敗戦の報がわれわれに伝わるや、深夜密かにどこかへ姿をくらます兵も数名あった。中でも、逃亡をもっとも疑われていた者が、外ならぬ私自身その人であった。というのは、私は同年六月に入隊して以来敗戦の日まで、機会あるたびに敗戦気分、厭戦気分をそれとなしに周囲に漏らしていたからである。その理由の一つは、負ける戦の中で死ぬほど馬鹿げて無駄なことはないという認識が、私の心の中に確立していたからである。しかしながら、日本が敗北し、平和が訪れた現在、死ぬ心配もなくなったのである。したがって私は、部隊から逃げ出すこともしなかったのだ。犬死が私から遠ざかったのである。
北サハリン抑留記(18) また、食べ物の話では、大きな樽に入った塩漬けの鰊の思い出がある。オハの町の空き地で作業している間に、私はある民家の外に大きな樽の中程まで、塩漬けの鰊が詰め込まれているのを見つけた。それは捨てられたものか、あるいは家人が食べ飽きて、ただ外に出して置いたものか、はっきりしなかったが、家の人たちがそれを当てにしている風情が見られなかったので、ラーゲルに帰ってから数名の仲間の者に私は、それはまだ食べることができそうだから取ってきてはどうかと提案した。彼らはそれぞれ飯盒を持参して、喜び勇んで出かけた。(抑留されてから二年ほど経った後、ソ連の歩哨なしに自由に外出できるようになった)それから一時間後に、それぞれ鰊を飯盒一杯に入れて持ち帰ったのだが、その時の彼らの苦しげな表情は、はじめのうちは見るに忍びなかった。寒い所で塩気の多い物の中に素手を十分以上でも入れていた場合、手がいかに冷たくなるかは経験した者にしか分からない。旧帝国陸軍の強者(つわもの)たちが冷たさのあまり、泣きべそをかき、また悲鳴をあげている図は、私の同情の域を超えてしまった。私は、寝床で毛布をかぶり、おかしくてクスクス笑うのを抑えるのが精一杯であった。なぜならば、持参した鰊を鍋に入れて煮物にしようとしたところ、中に煮えて固形のまま残っているはずの鰊が、すべて溶けてしまい、鍋の中には塩辛いスープと鰊の骨しか残らなかったからである。
連載特別編
2023年9月27日の読売新聞から 抑留死 モンゴルに新資料 第二次世界大戦後のソ連によるシベリア抑留で犠牲となった日本人のうち283人の氏名や死因が記された資料が、モンゴルの首都ウランバートルにある国立公文書館で見つかった。厚生労働省は「抑留死の状況がわかる貴重な文書」とし、犠牲者の身元特定のため日本に残る資料との照合作業を進めている。 読売新聞の記者(井手裕彦)時代から抑留問題を取材してきた北海道在住の記者が、2020年1月にこの資料を見つけた。 シベリア抑留とは、満州(現中国東北部)などにいた日本兵ら約57万5000人が捕虜となり、ソ連やモンゴルの収容所(ラーゲリ、ラーゲル)に連行された。重労働にかり出され、約5万5000人が死亡。モンゴルでは約1万4000人が抑留され、約1700人が亡くなったとされる。
北サハリン抑留記(17) ある日、私は他のメンバーよりも数時間送れて、ロシア人の馭者に扱われる馬橇(ばそり)にただ一人乗っかって作業場に出かけた。その移動の間中私の心の中には、この真っ白な雪の上に大きな黒パンが落ちていてくれないかな、という願望が広がっていた。丁度その間に、ひと抱えほどもある大きな黒パンが、一寸せり上がった雪の山の上に乗っかっていたのだ。馬橇に乗ったまま私は、その生温かいパンにとびつき、むしゃむしゃ食べたことは言うまでもない。まるで正夢中の正夢が実現した気分だったのだ。
北サハリン抑留記(16) また、食物の分配に関して忘れてならないことに、翌日の昼食になる黒パンの分配の仕事があった。これは映画などでロシア人やソビエトの人たちもそうしているのを見た記憶があるが、方法は次のごとくである。 われわれは十人分の黒パン一個ならば、それを十等分するために、あらかじめひもや定規を使って十等分できる物差しを作っておいた。その物差しをパンの上にあて班員の中でも特に腕利きのメンバーが、パンを切り分けそれらのパン切れの上に一、二、三・・・・・の数字を書いた札をのせ、班員が持っている札の番号と一致した番号ののったパン切れが、自分のパンとなる。要するに公平なくじによって、自分のパンの一切れを所有するのである。たとえ腕利きの班員がメジャーを使ってパンを切り分けたにしても、人間の手作業の限界から、どうしても多少の大小の差ができる。現在のように饑餓と縁のない状況下では、そのような大小の差なぞ、問題にもならないが、飢えきったお腹をかかえるわれわれにとって、些細な大小の差が、大きな不満を生み出しかねなかったのである。特にくじの結果、黒パンの両端の固い皮の部分を当てた者は喜んだ。なぜならば、そこは固く緻密にできている分だけ、麦の量が多いはずだからである。兵士達の中には、飢えや寒さのため発狂とまではゆかないが、気の触れた者が数人いた。その中でも、作業を差し止められ、半ば監禁状態にされていた一人の兵は、夕食時に自分の前に並べられた班員達の食事を、手当たり次第に食い荒らしさえしたものだ。(一度だけであったが)その外、食糧倉庫での作業中に仲間の食料の入った、かなり大きな袋をひそかに盗み出した者もいたという。共産主義社会では、公的な財産の隠滅等に対しては、厳罰を科せられることになっていたが、この兵士の場合、どのような処分を受けたか、記憶にはない。
北サハリン抑留記(15) そして、体調のすぐれない兵士は数日間、作業場に行かず、ラーゲルの留守番をすることがあった。労働を免除されるか否かは日本側、ソ連側両方の軍医の相談によって決められていたと思うが、その兵士が夕刻われわれが作業場から帰ってくる前に、炊事場から食事を運び、班のメンバー数十人分の食事を十数個のどんぶりにそれぞれ等量に配分する仕事をあてがわれていた。ところが、作業から帰ったわれわれの前にならべられていたどんぶり飯は、どうも以前よりもやや少なめに感じられてならないのだ。結論は、残留していた兵士が、一人前のどんぶり飯をさらに自分のものにいていたに違いないということだった。彼はわざわざ一人分余計にどんぶりを並べ、均等に米飯を盛りつけることによって、不正が暴露しないよう気をくばったにもかかわらず、飢餓状態のわれわれの正義感がそれを見抜いてしまったのだ。(この兵士はわが班に所属していた)われわれ誰一人として彼の盛りつけの仕事を見ていなかったにもかかわらず。
北サハリン抑留記(14) また、次のような話も伝わってきた。有刺鉄線で囲まれている収容所の柵の間から、ソビエト兵が飼っているワン公が、白パンの切れ端を口にくわえてちん入してきた。われわれの仲間の誰かが、そのワン公に「シーッ」と声をかけて追い出したところ、ワン公は驚きのあまり、咥えてきたパンを落として逃げ去ったので、その兵士は残されたパン切れを拾って食べたという。また、ある班では、作業場で中型犬を撲殺し、昼食時に肉鍋をつくって食べてしまったという話もある。
今日の読売新聞に抑留中に死亡、遺骨が判明という記事が目に止まった。 二〇二三 七月八日 読売新聞の記事より 厚生労働省は七日、第二次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域とモンゴルで死亡した日本人抑留者九人の身元を特定し、氏名や出身地などを公表した。身元が特定された人たちは次の通り。問い合わせは、同省援護・業務課調査資料室(〇三・三五九五・二四六五) 北サハリン抑留記(13) 食べ物に関してさらに言うならば、朝と夕方、十数名単位の班の米飯を、指名された者が四角の米びつ(ふたはついていない)に人数分を盛りつけてもらい、炊事場から収容所内の班の休憩所まで運んで来るのが習わしであった。ところが、食事運搬の当人が、米飯を運びがてら米びつからすくい取って、食べているのではないかという噂が立った。運ばれてくる米飯の量が、他の班のそれよりも少ないということが、飢えている兵士達にはすぐさま直感できたからである。それで、運搬人の他に更にもう一人の監視人役を付けることにした。ところが、その監視役が後ろから米飯をすくい取って食べているのではないかという疑いが出てきて、それで更にもう一人の監視人を付けることによって、米飯を丸々無事班内まで運んで来れるようになったグループもあったという(これはわが班には関係ない)。
北サハリン抑留記(12) ちょっと少し話を切り替えて、こんなユーモラスなことも同時に思い出される。真っ赤なストーブを囲んで暖をとったことについては前に触れたが、時々冷たい黒パンをストーブにのせて、温める仲間もいた。その際、身体の前部が熱くなって、背後に向きを変え、一、二分背中を暖めて再び元の姿勢に戻ると、しばしばストーブの上のパンがなくなっていたのである。言うまでもなく、それは誰か他の兵隊が、パンを炙っている仲間の隙を伺い、彼が自分のパンに背を向けた瞬間に、それを盗んでしまったのである。しかもその犯行に周囲の者が誰も気づかず、パン泥棒が問題になったことは一度もなかった。ひょっとするとその犯行は、口封じを兼ねて他の兵隊をも巻き込んだ、共犯だったかもしれない。だが、真相は今もって藪の中である。
北サハリン抑留記(11) この丸太造りの収容施設の廊下に、距離をとって二台のストーブが取り付けられた。それはドラム缶を横たえて煙突と火入れ口を取り付けた、比較的簡単なものであったが、二百人乃至三百人の日本兵仲間の頼れる暖炉といえばそれだけであった。寒い夜には、そのストーブが真っ赤に変わるほど薪をくべても、それを取り囲むわれわれの身体の胸、腹などの前面部が熱くてたまらないのに、身体の背中部分は寒くてたまらないのである。また、ストーブから数メートルしか離れていない寝床の奥の所にできていたつららは、全く溶ける気配を見せていなかったのだ。皮肉なことに、今思えばそのことは、われわれにとって幸いであった。というのは、つららが溶けはじめようものなら、湿気のため収容所はもはや宿泊の用を足さなくなっただろうから。それにしてもこのような極端に寒暖の差の激しい建物が、われわれの身体の健康によいはずはなかった。収容所生活のこの最初の年の最初のラーゲルの中から、われわれの仲間のうちの最大の犠牲者が出たのである。われわれの連隊だけで数十名の死者が出たと考えられるが、その過半数あるいは最大多数は、初年兵達であった。われわれは、大戦の最後の年の六月に、兵役一年切り下げの制度により、満十九才で招集された、体格の劣悪な若者の集団であったからである。
北サハリン抑留記(10) 北サハリンに到着して、われわれが作らされたものは、まずわれわれ自身が住み着くためのラーゲルであった。収容所作りは、馬小屋を改造することであった。馬小屋は、中央の廊下をはさんで左右に二段重ねの寝床をしつらえて、バンカー方式の宿泊所に変ぼうしたが、その時の遠方からの丸太運びがまず大変であった。小雪の降るある日の午後、厚い外套を着込んだまま、数キロメートルの遠方から私の身長の二倍もありそうな丸太を、肩に乗せて運んだ記憶が、いまだにまざまざと脳裏に刻まれている。重荷をを背負って遠距離を歩む足取りに、不思議と疲労感や耐え切れなさ、嫌悪感といったものは全くなかったが、(それは寒さのせいだったかもしれない)この重荷をどこまで、いつまで運ばなければならないのか、この重荷を大して重いとも感じない自分自身に、むしろ恐いものを感じたのであった。
北サハリン抑留記(9) この年と翌年の冬は、われわれ敗軍の兵達にとって、これまで経験したことのない、手厳しい幻滅のオンパレードであった。 政治犯や捕虜の取り扱いに関するソ連当局の計画、立案の緻密さには、帝政時代からの長年にわたる経験の積み重ねがあり、そのことはすでに貨物船に掲げられていた立派な日本語による、国際捕虜規定の掲示に象徴され、その日本語は筋金入りの日本人共産党員の手に成るものとの印象をぬぐい去ることはできなかったが、そのなかで特に注目されたのは、将校と下士官ならびに兵士との待遇の差異であった。われわれ初年兵は、年上の兵士達、ならびに下士官共々に辛い筋肉労働を義務づけられていたのだ。
北サハリン抑留記(8) たとえ捕虜の身とはいえ、ロシアはヨーロッパの東の一角に関わる国であり、したがってロシアについて、ライン川沿いの古城から感じとられるものに等しいロマンティックな夢が、それまで私の胸の中を去来していた。ところが、その青春の夢が一撃の下に砕かれたのは、ある部落を通り過ぎる時の光景である。われわれは敗戦国の軍隊に相応しく、毛布を背負い、みすぼらしい軍靴をはき、身も心も打ちひしがれていたので、見物していた住民達の嘲笑の的となり、ヤポンスケ、ホダナ、ホダナ(日本人格好悪いぞ、格好良くないぞ)と囃し立てられたのはやむを得ない。しかし、そういう彼らとて、われわれを笑える身支度ではなかったのだ。九月下旬とはいえ、北サハリンの寒さは、日本内地の十二月、一月の寒さであった。(数日後に四、五十センチの高さの積雪があった)そのような寒空の下で、二十人ほどの住民達が靴下も靴もはかず、地べたに素足で立ったまま、その上若い女性はスカートの下から白い脛を丸出しにしたまま、われわれを笑っていたのである。したがって、われわれもまた彼ら、彼女らを笑ってやりたかったのだ。
北サハリン抑留記(7) 九月中旬にわれわれは北サハリンのオハ地区付近に上陸した。入り江の突端には日本家屋が立ち並び、戦前日本の資本による石油採掘が行われていたが、入り江の底には、コールタールのような黒い石油の塊が残っていた。地元のソ連人の話によれば、日本人達は戦争によってオハ地区から日本へ引き揚げるに際し、意図的に石油を垂れ流しにしたまま立ち去ったという。
北サハリン抑留記(6) その後、四五年九月初旬に、われわれは彼らの豪華客船と比べれば、かなりみすぼらしい、ソ連側に拿捕された日本の貨物船に乗せられた。楽観的な日本兵の中には、われわれはこの船で日本に返されるのだと言う者もいたが、私はそうは思わなかった。なぜならば、われわれと一緒に馬などもクレーンで乗せられたからである。人間はともかく、動物までも旧敵国に返す戦勝国がどこにあろうか。果たせるかな、われわれを乗せた船は旧亜庭湾を南下して、日本海側に突出した半島の岬を回ると、北上を始めてしまった。途中、船は旧真岡港に停泊した。真岡出身の者は、船の甲板から町を眺めてもよいという許可が出たので、真岡出身(私の生まれは北海道だが、当時両親はじめ家族が真岡市に在住)の私は甲板上から私の家があった北浜町辺りを眺めたが、そこにはほとんど家屋などなく、ただの焼け野原になっていた。今にして思えば、ソ連軍が町を眺めるのを許したのは、灰燼と化した町をわれわれに見せることによって、日本の敗北を事実としてわれわれの胸に刻み込ませるためだったと考えられないこともない。
北サハリン抑留記(5) 滞在中も捕虜としてのわれわれは、時折使役にかり出されたが、われわれを監視するソ連兵はどこからか一升瓶の日本酒を見つけ出し、それをラッパ飲みにしながら、歩哨の仕事を続けることもあった。また、彼らはビタミンに飢えていたらしく、トラックに乗っていた数人の兵士がにわかに降り立ち、畑の中から蕪などを引き抜き、それをそのまま生かじりする光景もあった。しかし、敗戦国の兵士としての悲哀を、もっとも強く感じ取ったのは、ある日の夕刻、使役を行っていた間に、先に述べた豪華客船から、チャイコフスキーか誰かの作曲になる、明らかに勝利の歌と思われるものが響き渡ってきたことである。それには、ウラー、ウラーという兵士達の歓呼の声が伴っていたことは言うまでもない。
北サハリン抑留記(4) それはさておき、サハリンの陸地を南下してきたソ連兵の一団とは別に、大きな豪華客船に乗って大泊港に入港してきた兵士達もあった。噂では彼らはベルリン攻略を終え、すぐさま反転する形でシベリア方面へ回されたとのことだったが、その軍隊の中には、ソ連兵のための慰安婦達も交じっていた。また、今なお私の印象に残っているのは、中年の太鼓腹の眼鏡をかけた軍人らしからざる軍人も乗っていたことである。恐らく主計将校かあるいは情報関係の軍人だったと思うが、その彼から私は、妙な異国情緒を感じとったものである。
北サハリン抑留記(3) ソ連が八月末に南サハリンの大泊まで南下し、われわれはそこの小学校に集められ武装を解除された。外国の兵士の姿を見たのは、その時が初めてであったが、ソ連の若い兵士達は、われわれ日本軍の初年兵よりも二才ほど年下で、生活は質素であったが、手に持っている武器は、日本軍のものよりも一段と優れていた。われわれは所謂三八式歩兵銃をあてがわれていた。それは、明治三十八年に発案し製作され始めた銃であるから、三八式という名称を与えられたのか、それとも明治三十八年は日露戦争を勝利のうちに終えた年なので、縁起をかついでそのような名称になったのか、その理由は私には定かでないが、いずれにせよその機能は単発式で、銃自体も長くかなり重いものであった。ところが、ソ連兵の持っていたものはカービン銃で、重量も軽く連発式であるから、われわれの銃とは比較にならない優れものであった。
北サハリン抑留記(2) 私は一九四五年(昭和二十年)六月に南サハリンの旧大泊市に駐留していた歩兵第三〇六連隊に入隊した。同年八月十五日に終戦の日を迎えたので、わずか二ヶ月間の帝国陸軍の軍人であったが、その後四年間も北サハリンに抑留されることになろうとは、当時はもちろん予想だにできなかった。
北サハリン抑留記(1) 二〇二三 六月二日 読売新聞の記事より 厚生労働省は二日、第二次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域とモンゴルで死亡した日本人抑留者九人の身元を特定し、氏名や出身地などを公表した。身元が特定された人たちは次の通り。問い合わせは、同省援護・業務課調査資料室(〇三・三五九五・二四六五)という記事が目に止まった。未だ戦後の傷跡が残っている現実を思い知らされた。